前谷津川緑道
都営三田線 新高島平から600m程進南に下ると赤塚公園に出ます、武蔵野
崖線の斜面と首都高5号池袋線に挟まれた公園を西に進み、練馬から北上して
きたR17新大宮バイパスに当たる所が公園の西端となります。
R17を横切り赤塚溜池公園内にある板橋区立郷土資料館に入ってみました。
資料館前には旧板橋遊郭 新藤楼の唐破風造り玄関があり、入口には青銅製
のモチール砲(臼砲)が展示されています。
資料館内にはビクター製の映写機やエルモ撮影機が展示され、板橋には戦前戦後
を通じて旭光学など日本の主要光学機械メーカーが集まっていた事を示していま
す。
板橋紹介ビデオで①古代の住居、②江戸時代の徳丸村と前谷津川、③昭和20年
6月大空襲 を見てから内庭に出ると大きな漬物樽、醸造用の鋳物の大釜などが
置かれ、旧田中家の立派な茅葺屋根の農家が 冬の柔らかい日差しの中で落ち着
いたたたずまい。

資料館を出て裏にある赤塚城跡に登ってみます。
小高い丘に立つと葉を落としたケヤキやエノキに囲まれた小学校の校庭ほどの
広場には敷き積まれた枯葉の上で親子連れが遊んでいます。
付近にある「赤塚城跡と徳丸ヶ原」説明板に次の事が記されています。
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①赤塚城跡は、この公園の南の台地上に位置する室町時代の城跡
②ここは、康正二年(1458)千葉自胤(ヨリタネ)が入場したと伝えられ、現在でも
空堀や土塁の跡を見ることが出来る
③北、東、西の台地の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池は、それらの
谷のしみだした水をたたえている
④城跡の北側に開ける高島平は、江戸時代、徳丸ヶ原と呼ばれた原野
⑤ここで天保十二年(1841)、高島秋帆(シュウハン)が洋式の砲術訓練を行ったこと
が高島平の地名の由来となった
⑥明治時代以降は開墾され、徳丸田圃と呼ばれる一面の水田地帯となり、溜
池の水は、灌漑用水として利用されていた
⑦高島平団地の開発が始まったのは、昭和四十年代に入ってからのこと
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これで資料館入口にあったモチール砲の置かれている意味が分かりました。

梅林から公園を出て乗蓮寺、赤塚植物園(万葉・薬用園)を通り起伏ある入り組ん
だ道を迷いながら進むうち赤塚しのがやと公園にたどり着きました。
入口にある[赤塚しのがやと公園の由来]
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①赤塚六丁目付近は、かって「篠ヶ谷戸」と呼ばれる湿地帯
②この公園のあたりは、「前谷津川」という小河川が流れており、一帯が
「谷戸(谷状に切れ込んだ地形)」になっていた
③そこに「篠竹(茎の細い竹の類)」が茂っていたことから、篠竹の生えた谷戸
という意味で、「篠ヶ谷戸」という地名になった
④前谷津川は、周辺の湧水を水源とした清流で、昭和初期頃まで生活用水や
周囲に広がる水田の用水に使われるなど人々の生活になくてはならないもの
だった
⑤こうした地域の歴史を後世に伝える手掛りとして、この公園に「しのがやと」
と言う名前を残した
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この公園からスタートする前谷津川緑道は昔の流れの名残を残し住宅
の間を曲りながら東に向かいます。
赤塚中央通り、新大宮バイパスを横断すると水車公園、
直径2.7mの上掛け水車があり小屋の中に突出た木のシャフトに直径50センチ程
の木製歯車がクランク軸を回し挽臼一つと搗き臼二つを動かす仕掛けになって
います、水車小屋の前には角を取ったカブトムシのような炭焼き窯。
日本庭園 徳水亭を過ぎ徳丸石川通りに出てから 徳丸槇の道に入ると登り坂と
なり緑道は200m程南の低地に回りこんで東に進み紅梅保育園の辺りから直角に
曲がり北に向かいます。
やがて首都高5号池袋線の下を通り高島団地を抜け都営地下鉄三田線の下を通り
新河岸川まで続きますが、しのがやと公園から始まる前谷津川緑道は小さな台地
の輪郭を縫うように走っている事を感じました。
H24.1.9
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